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「やかまし屋の管理人」

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 今住んでいるアパートに越してきたのは八年ほど前になる。日当たりのよさ、使い勝手のいい間取り、地下鉄の駅にも
近いなどと、すべてが気に入って入居を決めたのだった。だが、思わぬ落とし穴があった。真下の階に、管理人が住んで
いたのだ。このアパート中の住人から恐れられている、おばあさんの管理人が。
 管理人さんがいるなんて便利、くらいの軽い気持ちで引越しのあいさつにうかがうと、小柄な白髪のおばあさんが戸口
に現れ、かなり度の強そうな眼鏡の下からぎょろっと人をにらんで、「お宅は組み立て式の家具ばかりなのかい? ずい
ぶん、トンカンとうるさかったねえ」。この先制攻撃にすっかり萎縮してしまったわたしは、あいさつどころか「すみま
せん、これから気をつけます」とひたすら陳謝。以来、秩序と規律をがんこに重んじる、昔はよくいたタイプのドイツ人
である管理人さんとのつきあいが始まった。
 管理人さんは、どこで会ってもぶつくさ住人の文句ばかりいっていた。ゴミ捨て場で会えば、「ごらんよ、この捨て方!
分別なんか守りやしない! ダンボールは畳んでつぶしてから捨てるもんだろ、まったく!」。自転車置き場で会えば、
「きちんと並べて置けないんだね、ここの人は!」。階段ですれちがえば「タバコの灰、落としていくやつがいるよ!」、
共同玄関で会えば「また開けっ放し!なに考えてるんだか!」といった調子。次第に、こっちが別に悪いことしてなくて
も見かけるだけで、「わっ、まずい、でた!」みたいな心境になってしまったほどだ。
 ほかの住人と知り合うにつれ、みんな管理人さんにずいぶん気をつかっていることがわかった。一階に住んでいるプー
チン大統領そっくりなロシア人(我が家ではいまだに彼の名前を覚えられず「プーチン大統領」と密かに呼んでいる。い
つもぴしっと背広を着、黒塗りのベンツに乗り、隣のキオスクでパンを買う)は、「ゴミを捨てるたびに監視されている
気がする」と、ゴミの分別に神経をつかい、四階に40年以上住んでいるという年金暮らしのA夫妻は、ペットの犬を散
歩に連れて出るときに階段で犬が吠えたりしないよう細心の注意を払う。三階に住む上品なイギリス人、ミセスPは自転
車をショールームのように美しく整然と並べることを心がけ、やはり三階に住むわたしのママ友達であるWさんは乳母車
を指定の位置に、壁にむかってまるで定規ではかったようにきちっと垂直になるようにおく。すべて、管理人さんに文句
をいわれないためである。もちろん、二階の我が家も彼女の真上に住んでいるだけに、しょっぱなから「うるさい」と苦
情をいわれて以来、騒音にはずいぶんと気をつかったものだ。
 ところが、彼女は急な病にたおれ、亡くなってしまった。階段の手すりやネームプレートを磨きながら、毎朝出かける
住人たちをぶっきらぼうに「おはよう」と見送った管理人さん。出入りする庭師、修理屋や郵便配達人、ゴミ回収人にま
で文句をいい、厳しくその仕事ぶりをチェックしていた管理人さん。自らもてきぱきと働き、アパートの公共スペースを
つねにきちんと、整然とした状態に保っていた管理人さん。
 彼女の亡き後、アパートの秩序はたちまち乱れてしまった。ゴミは収集容器からあふれ、分別もいいかげん。自転車は
平気で邪魔なところに置かれ、乳母車を置く場所はいろんなものがごった返している。住人たちのモラルは「ま、いいっ
か」になってしまった。
 そのうち、しばらく空いていた我が家の下に若い学生たちが越してきた。スピーカーを大音量にして夜遅くまで音楽鑑
賞(?)をする若者たち。こどもを寝かしつけているとき、なんど「ボリューム下げて!」と、文句をいいにいったこと
だろう? そのたびに若者たちは「わっ、まずい、でた!」と恐ろしそうな顔をするのだが…。


市の清掃人。とても目立つ色の業務服を着て働く。 管理人さんは、こういう人にも「うちの前をもっときれいにして!」といいにいく人だった。

アパートの中庭に、高さ1メートルほどのゴミ容器がおいてある。 青色は「紙類」、緑のは「ビン・ガラス類」(これも色つきとそうでないのに分別)。


中庭の自転車置き場。

共同玄関から中庭へ通じるホール。いつのまにか乳母車以外にもいろんなものが置かれるようになってしまったが…。

 「これってドイツ流」もこれで最終回。ふだんは翻訳を手がけているわたしが、ドイツ暮らしを通して体験したさまざ
まなエピソードを文章にするのは、思いのほか楽しい作業でした。これを機に、読者のみなさんが少しでもドイツに親し
みを感じてくれれば嬉しくおもいます。どうもありがとうございました!           ©Sakae Kimoto



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